カフェテリア・カビノチェ
特選ディスカッション


時計と刀


●上森氏の意見

みなさん、こんばんは。
このページが開設された時、わたしはこれほどまでに内容の濃いお話しが
できるなどとは夢にも思っていませんでした。
感激しております。
みなさんは真摯に、なおかつ紳士的にお話ししてくださいます。
よい関係に参加することができ、喜ばしいことだと思っております。

To 周くん:

日本の武士は、刀をもっていましたよね。
刀は「武士の魂」といわれ、文字どおり「肌身離さず」身につけていました。
武士は刀を、「切る道具」としてだけではなく、「精神を練磨するもの」として使用しました。
この人と道具との関係は、文化であり、もっとも高度な道具の使用方法ではないかと
思います。
もしかしたら時計愛好家は、時計に対して「武士の魂」に近い意識で接しているのかも
しれませんね。

●周くんの意見

刀と時計の関係、意表をつかれた思いです。おもしろいです。

>刀は「武士の魂」といわれ、文字どおり「肌身離さず」身につけていました。
>武士は刀を、「切る道具」としてだけではなく、「精神を練磨するもの」として
>使用しました。
>この人と道具との関係は、文化であり、もっとも高度な道具の使用方法ではないかと
>思います。
>もしかしたら時計愛好家は、時計に対して「武士の魂」に近い意識で接しているのかも
>しれませんね。

刀と武士との関係を、時計と時計愛好家との関係と対比させて考えているのですね。
誠におもしろいです。
刀と武士との関係で、その「物」がもつ価値、そして威力が大きければ大きいほど、
客観的な意識が必要になると思います。つまり、どちらが、主で、どちらが、従か
ということですね。その「物」が、核兵器であれ、大金であれ、そうですね。
往々にして、人は、大金を目の前にしたとき、またおおきな権力を握った時、
その「物」と「精神」の主従の関係は崩れ去ってしまう場合があります。

時計を持つ場合にしても、そうです。価値のある時計、手に入れるのに自身に負担の
かかる時計を所有していく内に、いろんな影響をその時計から受けることになります。
「物」が「精神」を変革していっているのですね。「物」はその「精神」によって
その価値を与えられるのですが、逆に「物」が「精神」を変えていってしまうのです。
上森さんのおっしゃる「精神を錬磨するもの」というのは、こういう状況を客観的に
認識して、それに対処することができるようになるということではないでしょうか?
バートランド・ラッセルの幸福論の中で、彼はこう述べています。
「客観的に生きる人は、幸福になれる人である。」
妖刀村正という刀があります。時計をとっても、時計愛好家にとって
それに匹敵するような精神状態を生む時計もあるかもしれません。大事なのは、
それに対する精神ですね。その「物」にどういった意味が与えられるか、そして
それは客観的にどう認識されるかだと思います。
もうひとつ感じたのですが、ひょっとすると上森さんは、「刀」という言葉に
「言論」という意味も込めたのかもしれませんね。
ペンは剣よりも強し、というように、
いろんな人に対する私の言葉が尖っていなければいいのですが・・・

●上森氏の意見

周くん、

>「客観的に生きる人は、幸福になれる人である。」
>「刀」という言葉に「言論」という意味も込めたのかもしれませんね。

というくだりに、意識が集中いたしました。

刀と武士の関係は、
剣と騎士、釣竿と釣り師、包丁と料理人、ノミと大工、拳銃とガンマン、楽器と音楽家・・・
などの、いろいろな道具と人間の関係の中で、最も精神的であると思っておりました。
刀と武士との関係ほど高いレベルで、濃密な精神的な関係を実現している例は世界的に
見ても少ないのではないでしょうか。
あえてそれに匹敵する例を挙げるとすると、茶道具と茶人があるように思います。
刀も茶道具も日本独特な文化であり、それらは世界から一目も二目も置かれ、神秘的で
高貴な精神状態とされていると思います。
また、日本人でありながら、今もっとも忘れ去られつつある精神状態でもあると思います。

さて今、目の前に剣豪がいるとします。
彼は、日々剣の道に自らの全てをささげ、刀を自分の魂の拠り所として練磨を重ねています。
彼は、刀を練習や試合の道具として使用する以外に、一日が終わった夜、孤独な時間に
それを手入れし、眺め、さまざまな思いを致します。
無言に光っている刀は、彼に何かを語り掛けてくれることでしょう。
この刀からの語り掛けは、聞く耳をもった人でなければ聞くことができません。
剣の道を真剣に歩んでいる彼だからこそ聞き取れる言葉もあるに違いありません。
彼は刀とのダイアローグを終えて眠りにつき、また明日からの練磨の心的支えにする
ことでしょう。
客観的に見れば、刀は生き物ではないので、この場面で思考しているのは彼だけです。
しかし、彼は刀という契機によって、孤独に打ち勝ち、強い精神力を獲得しています。
つまり、自己完結(自己充足)しています。
無機的な道具に思いを致すことにより、彼は飛躍を遂げているのです。

このように、練磨を志している人であれば、たとえ無機的な道具を与えられただけで
あっても、それを心の友として受け止め、豊かになることができます。
その際、その刀の値段は問題ではありません。
彼ほどの剣豪であれば、無銘の刀であっても、あるいは道端にころがっている棒きれで
あっても、同じような精神活動を行うことができることでしょう。

さて一方、時代劇などで、悪代官が金に物を言わせて銘刀を買い、
「ほう、よいものよのう」
「どうだ、ひとつこの正宗で人を斬ってみるか」
などと言って、夜な夜な辻斬りに出かけたりします。
悪代官は先の剣豪ほどの精神レベルに至っていないので、刀の価値を値段でしか計る
ことができません。
この刀は誰の作であるとか、この仕上げ方は何風だからよいとか、何とかという鉄を
使っているのでよいとか・・・・。
とにかくそういったことには大いに興じるのですが、肝心の精神の練磨に至りません。
したがって、客観的に見て刀という契機を活かすことができておらず、何の精神的飛躍も
なければ良い状態を生み出してもいません。
彼にとっては、無銘の刀は無銘の刀でしかなく、棒きれは棒きれでしかありません。
どんな銘刀を与えられても、そこからいかなる精神的影響を受けることもないでしょう。

「わび」とか「さび」という言葉があります。わたしはとても好きな言葉です。
「茶道の哲学 久松真一著 講談社学術文庫」にこのような話があります。

「わび茶人」とはどういう茶人かというと、名物の茶器をもたないとか、茶の道具を
もたない茶人とかいう意味なのです。
つまり貧乏(物をもたない)な茶人ということですが、とはいっても、
茶人であるからには、ただ貧乏だけではないところがあるのでございます。
わび茶人というものは、「物をもたないのを生かす」というところに非常に大きな意義が
あると思うのであります。
とにかく家を建てるにしても金もないし、よい材料もないから、そこら辺から有り合わせの
ものや廃物を集めてきて、ほんの膝を容れるに足るような粗末な小屋を建てる。
その小屋の建て方や、有り合わせの資材の用い方や、空間の利用の仕方をよく考える。
むしろ金も十分にあり材料も十分にある場合よりも、かえってそれ以上のものを創り出す
というところに侘びの創造的精神があるのでございます。

この話は、非常に示唆に富んでいます。
とりとめもなく書いてしまいましたが、今言ったようなことが時計趣味にも共通する
ところがあると感じ、書かせていただきました。

●GP7000氏の意見

博多での学会は、大盛況でした。これで、今年の学会発表は無事終了です。
博多は、学生時代を過ごしたなつかしい土地でもあります。
時間が許す限り、歩き回りました。

某デパートで高級時計の展示会をやってまして、平日ということもあってガラガラで、
バセロン、パティック、フランクミュラーなど、手にとって(腕に着けて)みる機会
がありました。とても、贅沢なひとときでした。
各ブースの担当者とも、楽しく時計の話ができました。
中でも、SEIKOの方と日本の時計について、お話したことが印象に残っています。

>刀と武士との関係ほど高いレベルで、濃密な精神的な関係を実現している例は世界的に
>見ても少ないのではないでしょうか。
おふたりの刀についての考察、奥深いですね。

さて、私は、R-susというSEIKOの時計を持っています。
GMT針が付いており、海外遠征で重宝しています。クォーツ式ですが、キネティック
独特の充電するときのシャカシャカ音もたまりません。
以前、上森さんも書かれていましたが、この時計のコンセプトは、武士の刀なんですね。
長針、短針が日本刀、GMT針は東京タワー、文字盤も光と影を表現しています。
これは、SEIKOでも、クレドールやGSよりも、もっと若い世代のプロジェクトによる作品
だとおききしました。

アメリカでは、公園や学会場などで、3人の外国人に、その時計見せてくれと言われました。
(私のは、青文字盤なので、特に目立ちます。)
そこで、この針は、サムライの刀をイメージしたものだと(得意げに)説明すると、
そうか、日本人のスピリットだな、と感心したように答えられました。
日本人の意識を外国人に再認識させられる、ということはままありますが、おふたりの
書き込みを見て、日本人が忘れかけている精神であることを、再び感じた次第です。

SEIKOの、R-susを作った方々は、様々な思い入れがあったと、ききました。
私は、この時計に日本らしさと、忘れかけていた精神とともに、日本にしかできない
時計づくりの可能性を感じました。
もちろん、機械式も、もっと作って欲しいですけど。

....日本の時計について、思い入れと、遊び心を持って欲しいと書きましたが、こんな時計も
あったことを、(持っていながら)忘れていました.....

私は、メスを持ったときに、後には引き下がれない緊迫感を覚えますが、
一心同体には、程遠い、まだまだです。