SF時計小説 「パラダイス」

発端

西暦20××年10月4日、東京銀座4丁目のとあるビルにて・・・。

えー、ただ今よりASM社が開発しました新世代ウォッチ「パラジソ」についてのご説明をいたします。
まず、この時計の研究開発を進めてこられた ”佐々 京之介” 氏に、この画期的な時計のご説明をお願いしましょう。

どうも、佐々京之介です。
本日はご多忙中にもかかわらず、パラジソの発売記念パーティーにお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。
私は主にヒューマニューター研究に携わっておるものでございまして、今回のような時計デザインなどというものについては全くの門外漢でございます。
日頃の研究に疲れた頭を休めるために、趣味の時計について思いを巡らしているうちにこのようなアイデアが思い浮かび、友人のAMS製品顧問に話したところ、「それは面白い、是非製品化してみたい」ということになりまして、トントン拍子に話がまとまり、今日の発売記念の日になったのでございます。
この時計の面白いところは、技術を正当な目的、つまり精度追求に使っていないところでございます。
わたくしは今日この席で、なぜこのようなものを作ろうと思い立ったかについて、はじめてみなさまにお話したいと思います。

時計の歴史を振り返ってみますと、それは精度との戦いでございました。
日時計、砂時計、水時計、機械時計、音叉時計、クォーツ時計、原子時計・・・。
人類は少しでも正確に時を測れるよう知恵を絞り、努力を重ねてきたのでございます。
しかし、見方を変えると、時計の発明により、人々の生活に従来にはないある種の規制が起こったのも事実でございます。
大昔は人は分単位秒単位の時間に縛られることはありませんでした。
お日様が昇れば目覚め、沈めば眠る。
起きて働き、安らかに眠る。
こういう動物本来ともいえる生活リズムで暮らしておりました。
しかし、時計が発明され、生活に浸透していくうちに、人間の生活に大きな変化が生まれてきました。
何時何分にどこそこで待ち合わせする。
何時何分に働きに出かける。
何時何分に家に帰る。
何時何分に契約をまとめる・・・・。
長い人類の歴史に、かつて起こらなかったような行動パターンが生まれ、それはまたたく間に世界中に広がりました。

みなさん、時計はみなさんと社会を繋ぐ接点でございます。
社会生活を送るために、みなさんは時計を手放すことはできません。
ひとりっきりで何日間か生活してみるとすぐわかりますが、完全に自分一人で生活する上では時計は必要ありません。
今は何時何分であるかなどと気にする必要は全くないのです。
しかし、ひとたびあなたが社会と接するとなると、時計は必要不可欠な道具になるのでございます。
逆に考えると、時計を持つ、ということは社会とあなたとを強制的に結び付けるということを意味しています。

ところで、世の中には時計趣味というものがございます。
時間を知るための道具としての時計を、愛玩するという趣味でございます。
これはいわば骨董趣味に通ずるところがございます、あるいは、骨董趣味そのものと言ってもよいかもしれません。
刀剣などを手入れすることによって愛でる、古い茶碗などを静かにいじる、掛け軸などをじっくりと見詰める、というような行為は、ものと人との、ひとつの精神的関係として続いてまいりました。
昔は、この骨董趣味というものは、老人化の現れとして若い人から嘲笑的な見方をされておりましたが、20世紀後半、21世紀になりますと、その若い人たちが老人よりも熱心に骨董趣味に耽るようになってきたのでございます。
それが顕著にみられるのが骨董趣味の中でも、時計趣味というものです。
今日の若者は、注射によってBCS(ボディーコントロールシステム)という極小の機械を血液に流し込んで、そのBCSの作用により自分の体に整形を施したり、あらゆるリアルな幻影を楽しむこともできます。
しかし、そういった先端技術のもたらした文化に親しみ、謳歌する一方、なぜか機械的遺物ともいえるメカ時計やクォーツ時計を愛する人がおり、その数も年々増え続けているのでございます。

不思議なもので、時計を愛する人の多くは孤独を愛する人でございます。
実にパラドキシカルではありませんか。
時計を愛する人が孤独を愛す、こんな面白いことがありましょうか。
時計という社会との接点を、なぜ孤独な人が愛するのでしょうか。
わたしにとってこの現象は、己が己であろうとするために、社会という他者との対比を感じることによって、より一層己になろうとしているのではないかとも感じられます。

確かに時計をじっと見つめていると、ある種の孤独感に襲われると同時に、休むことなく走っている社会の動きを連想いたします。
時計をじっと見詰めていると、何かこう、いたたまれなさというか、自分はこうしてはいられないというか、社会に取り残されるというか、そんな、息苦しいような焦燥に駆られることがございます。
と同時に、ちょっと見方を変えて、時計そのものに意識の焦点を移しますと、そこには生命を連想させる機械の姿があり、自分と、時計という生命体との関係が生まれてきます。
人は何か他の生命と共にいる時には安心感を得るものでございます。
しかし、実際には時計は生き物ではありません。
もし、時計が生き物のように感じられるとすれば、それはその人の妄想です。
しかし、自分で作り上げた妄想によって、その人は安心感を得、癒されるのです。
つまり、時計という契機によって、人は自分で自分を癒すことができる、つまり、完結するのであります。
人が時計を見る時、時間そのものを見ようとすると焦燥感に駆られ、時計という機械を見つめると、己になるのです。

わたしは、時計がもたらしてくれる影響の中で、この己が己になりきる、つまり完結できる影響を高く評価しているのでございます。
そういった訳で、わたしが今回発表しましたパラジソは、時計でありながら、それとの付き合いを通じて、己が己になりきるという精神活動を更に高めることを目指して作られたものなのであります。

さあ、みなさん、これがそのパラジソです!
とくとご覧ください。