趣味としての時計というものを考えてみると、時計というものは世間一般に通用している趣味と、はなはだ趣を異にしています。
時計を趣味とする人は修理や販売にたずさわらない限り、つまり職業としない限り時計を眺める他にこれといって楽しむ方法が見つからないのものなのです。
例えば、趣味としてのスポーツはプレイするために運動しなければいけせん、車を趣味とする人はドライブや洗車を楽しみにします。
映画を見る人は与えられたさまざまな映像を鑑賞し作品のテーマに思いを巡らします。
音楽を趣味とする人はたくさんのCDを聴き、ときには楽器を演奏します。
ゲームはコンピューターや友人相手に対戦するという楽しみがありますし、クロスワードパズルは知恵を絞って問題を解く楽しみがあります。
これらすべての趣味に共通していることは、趣味に関わるにあたって、その人は ”能動的な状態におかれる” ということです。
その趣味をより楽しみたければより能動的になる必要があるのです。
ところが、時計を趣味として持つ人はこういう具合に能動的にプレイすることができません。
専門家でない限り時計を分解して組み立てたりもしないでしょうし、手入れといったって布で拭くくらいのことしかできないし、あとは店に行って時計を見るか、本や雑誌を買って読むくらいのものです。
こういう状態になると、人は知識に道を見出そうとするものです。
このブランドのこのキャリバーはこういう具合になっていて素晴らしいとか、このリファレンスiス番の時計はこういう特徴があるとか、まあ、そういった話に興じるしか道がなくなってしまうわけです。
しかし、このように雑誌や本などで得られる知識を覚えているからといって、それを語ったところで趣味としてどれくらいの面白さが加わるものでしょうか。
下手をすると、単なる詰め込んだ知識の暗記を語るに過ぎなくなり、「自分は通人である」という自己表現をするに止まってしまいます。
そうなってしまうと、本来 、”人が集い、お互いに尊重しあいながら楽しみを分かち合う” という趣味の温かい性質が、どんどん薄れて無味乾燥なものになっていきます。
われわれ時計愛好家は、この一見とらえどころのない時計趣味をよく吟味し、そして、同じ趣味を持つ人々と共に楽しめる方法を見出し、時計世界に踏み込むことが喜びとなるようなものに高めていきたいものです。
ところで、
世の中には何事であれ、ひとつのものごとに何十年も集中して一般の人には到底思いも及ばないような深い理解と精神レベルに到達する人がいるものです。
その達人たちを見て気づくことは、「彼らは頭のなかにリアルな像を思い浮かべることができる」ということです。
たとえば、将棋の達人は、頭の中にリアルに将棋盤を想像することができ、想像力だけで対局を行うことができます。
あるいは、そろばんの達人は、そろばんの像を想像することによって、凡人をはるかに凌ぐ高度な計算を暗算でやってのけます。
作曲家は、楽譜を見ただけで頭の中でオーケストラの音が鳴ります。
ピアニストはピアノの鍵盤を想像することによって、たとえピアノのないところでも頭で練習することができます。
このように何事であれ一芸に秀でた人々は、興味のある物事に長年親しんでいるうちに、その物事の理想的な像を頭の中にありありと想像することができるようになるものなのです。
各界の熱心な人々がこういった驚嘆すべき想像力を身につけることができている以上、われわれ時計愛好家にできないはずはありません。
つまり、時計の現物がなくても頭の中に最高の時計を描き出し愛用するという想像力です。
こういうことができると、流行を狙った記事に躍らされたり、高い時計を持っていないことにコンプレックスを感じたり、通人同士の会話に気後れを感じたりするような、モノに捕らわれた状態を抜け出せるように思うのです。
そして、時計愛好家仲間の間では、一つの時計を持っている人が、ありありとその時計について語ることによってあたかも持っていない人も実際に腕に付けているように想像し、楽しむことができるのです。 |